御嶽山の噴火は予知できた!!!! |
このたびの御嶽山噴火では、多くの参拝者・登山者の方々が犠牲になられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
「犠牲になられた」と書きましたが、何の犠牲でしょうか?「天災」ですか? ちなみに、御嶽山は7年前にも噴火しているれっきとした「活火山」です。むしろ「人災」の面も大きい、とかの武田邦彦教授も噛みついています。
これが、問題の画像。

ところが、これら火山性地震などの統括研究する所轄団体の気象庁と火山予知連絡会は、この異常を発表しなかった。
しかも、「予知できるわけがない」と居直りを決め込んでいる。

http://takedanet.com/2014/09/post_1de5.html
題名に「予知連絡会会長は逮捕が普通」と書いたが、イタリアの地震で予知委員会が「地震は大丈夫」と言って、地震が来て逮捕され、有罪になった。それは当然なのだ。
人間には「言ったこと、判断したことに責任がある」というのが当然である。責任を取りたくなければ発言したり、決定しなければ良い。今回の件は9月初旬から御嶽山の地震計がたびたび反応していたこと(下図)と、東北大震災以来、20山ほどの山でマグマの活動が盛んになっていたことなどがあり、レベル1(注意せずに登山できる)をそのままにした責任は重い。
いつも日本では「専門家」というのが登場するし、東大教授やその他の国立大学の先生が国の委員になる。このブログに書いているように、「学者」は学問の自由があるから、自由な発言が許されるが、それは精神的、内的な自由で、社会に具体的な影響を持つ国の委員会などでの発言は、裁判官、医師などとともに言動に対して社会的な責任を持つ。
私たち学者は二つの顔を持ち、もし自由な学問をしたければ、国の委員などになってはいけないし、専門家として社会に発信するなら、その権限を持つことができるが、自由は制限され、責任も取る。
福島原発事故もそうだが、学者は責任がないが、国の委員長はヘマしたら責任があり、被害者がでたら逮捕される。医学者は安楽死を研究しても良いが、医師は社会の了解がなく安楽死を施したら逮捕される(日本でも有罪になっている)。
この際、打ち続く災害を止める意味でも、「権限と責任」をはっきりさせなければならない。火山予知連絡会の会長は昨日の記者会見で、「火山予知ってこんなものです」と言った。それならレベル1とか2とか決めてはいけない。自分が決められないことを決めて、犠牲になったほうが悪いというようなことでは自ら自主したらどうか。
事故が起こると専門家という人が出てきて、犠牲者の気持ちとは全く違い第三者のような顔をして話をする。日本の指導層も心をもってもらいたい。
(平成26年9月29日)
これは、明らかに武田先生の言説が正しい。御嶽山の噴火は事前に兆候があった!!!!!!!
また、武田先生ののブログに、オーストラリアの洪水に関する話が載っていた。
http://takedanet.com/2014/09/4_5686.html
ちょっとした雨を「自分が経験する」のは140年に一度、かなりの豪雨に見舞われるのが2000年に一度ということになりますから、それで起こる水害や土砂崩れに備えるのも少し慎重すぎるかも知れないのです。そんなことにお金を掛けるなら、交通事故死が年5000人、火災による犠牲者が年2000人ですから、そちらにお金をかけて減らしたほうが「効率」としてはかなり良いということです。
だから、治水に税金を使うにしても、それは大型河川のような集中的に工事ができるものは良いのですが、個人住宅などの対策をあまり過度にすることはできないことがわかります。まず大雨による浸水を防ぐにはどうしたらよいかということですが、まず外国の例を挙げてみましょう。
オーストラリアのブリスベーンというところはゴールドコーストという非常に美しい海岸があり、日本の大金持ちが正月などを過ごすところとして有名です。ブリスベーンには内陸から大きな川が流れていて、その川はかなり蛇行しているので、10年から20年に一度、氾濫して河口付近の市街地を水浸しします。
私が3年ほど前に行った時には、その大洪水のあと、1ヶ月ほど経ったところだったので、日本から行くときに「ブリスベーンはひどい被害を受けたからすこし時期をずらしたら」と言われたものです。
ところが実際に行ってみると市街地は一階の軒先まで水に浸かり、みんな2階に逃げたということですが、もうすっかり修理が終わって街は賑わっていました。確かに洪水の痕跡はありましたが、その様子は予想外でした。オーストラリアの人に聞いてみると、「10年から20年に一度来るのだから、その自然現象を認めて、洪水に備えている」ということなのです。
それも「川を護岸するとコンクリートになり、景観を損なうし、ヨットで海岸に遊びに出ることができないということで、護岸はしない。だから洪水は覚悟の上だ」というのです。
だから、まず川上に観測所を設けて氾濫しそうな時には、「何時頃から氾濫する」という警告をだす」というシステムです(私の行った年の氾濫は上流の人がサボって警報を出すのが遅かったと怒っていました)。警報がなると、一階のものは二階にあげ、人間も二階に避難して洪水を待ちます。実に「自然と溶け込んだ対策」です。
洪水が引くと土建屋さんが総動員されて、かねて各家でかけていた洪水保険で修理をするというのです。いや、その立派な対策と社会的なコンセンサスに驚いたものです。
「川の氾濫を自然現象として捉えるか、それを人間が押さえ込むか」という点では、日本人のもともとの考え方は「自然現象としてそれも受け入れる」ということであり、むしろオーストラリア人(アングロサクソン)は「自然を押さえ込む」というのですが、それが逆転しています。
もう一つの例はベトナムのメコン川です。サイゴンからすこし南に行ったところに世界でも有数の大河、メコン川のデルタ地帯があります。この地域は毎年、じわっと水位が上がって、氾濫し、畑もなにもかも見えなくなります。そしてしばらくすると水が引いて、上流から運ばれた肥沃な土で田畑は覆われ、連作で起こりがちな作物の病害虫なども一掃されます。
だから、農民は毎年の洪水でも平気なようにやや高い床を持つ家を建て、田畑が沈んだら自然の現象として受け入れ、しばらく生活を変えるのです。
ベトナムの農村は本当に豊かです。少しの雨では川は氾濫しません。それは一年に一回、氾濫した時の土が畑に乗るので川より畑の標高が高いからです。これは次回以後に整理しますが、日本のように人工的な護岸をして川の方が高いというような馬鹿らしい状態ではないということです。
それでもベトナム人は都会で工場やサラリーマンとして生活するより農村の方が魅力的で、工場の悩みはせっかく18歳ぐらいから30歳ぐらいまで働いて、熟練した頃に農村に帰ってしまう人が多いことです。
つまり洪水というのはそれほど悪いことではなく、それを「悪い」と決めつけて自然を押さえ込もうとしていう私たちになにか問題があるのではないかと思います。
(平成26年9月24日)
そうですよね、全く。