全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、本日はPTA総会。 午前中3時間、午後1時間を授業参観にあててそれから総会がある。
何となくハメられて、授業参観の時には授業をやらねばならぬ。せっかく保護者の皆様がおいでになるので、少し派手目の授業をやろうと思っている。 視聴覚機材を使ってビジュアルもOK、グループワークをやってもらってアクティヴなラーニングも見せる。教材は、お得意の「多数決とは何か?」・・・・・「少数意見も尊重しなければなりません」などというガキみたいな答えではない。・・・
“多数決は本当に正しいのか?”という疑問から出発する数学的な授業だ。
もう10年以上も前の話になるが、↑の本で「選挙の仕組み」について学んだ。今は絶版になっているので、例のA社で検索しても、中古品しか買えない。しかし、書かれていることは、普遍の原理についての学習であるので何も色あせない。ワタシは、全国の公民科の先生は必読のバイブルみたいな書籍だと思う。(内容を書くと、今日の授業のネタバレになってしまう)が、「選挙とは何か」をズバリこれ以上ない言葉で示してくれている。
今、出版されている本の中では絶対にこれだ。
この『多数決を疑う』は、新書のある部門で、ちょっとだけ1位になったことがあると記憶している。「コンドルセ」とか「ボルダー」とかのカタカナ語がバシバシでてくる。ちなみに、ボルダとは、
ジャン=シャルル・ド・ボルダというフランスの科学者を差し、コンドルセとは、マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ・コンドルセ伯爵のことで、これまたフランスの数学者(哲学者・社会学者)である。
実は、“数学的に選挙を科学する”はじまりは、フランスであって、そのフランスは今も、数学的に厳格な選挙方法をとっている。そもそも、多数決で選ばれる場合、過半数を超えなければ、多数派といえども民意を反映したことにならないのだが、このような基礎基礎の思考さえも、日本人は出来ない場合が多い。
では、なぜ、選挙では、こんな数学的欠陥を無視してまでも強引に当選者を決めてしまうの?という疑問点がでてくるが、それに明確に答えを出したのが、
こちらの本である。
本日は、この参観授業を含めて、学校全体で、「授業参観をしてみよう」の日になっている。実は、私が属する「高校教員業界」は、他の先生がなされている授業を参観してみようという文化がほとんどない。強制的にみられることは何回となくあり、その場合は、こちらも身構えているので準備万端だが、普通の授業をふらっと見学されると、かなり恥ずかしい。
でも、この授業参観は、私たちが「勇気を出してやらなければならないこと」の一つだ。
この頃、ふと出会う若手の教員たち(ほかの学校で教えている奴も含めて)には、「授業コンテンツならば、あげるよ」と気軽に言っている。・・・・本気で、「くれ!」って言われたのは2回ぐらいで、みんな「ありがとうございます」とは言うが、その後の連絡はない。儀礼的な返事だったのね。
かれこれ、本気で授業づくりをしてきた20数年間、かなり試行錯誤を続けて、今では、そのテーマごとのコア(核)になるポイントはかなり積み重ねてきたつもりなのだが、これはどうしても次世代に継承したい。
本日の2時間目は、「世界史A」の授業を3年でやる。世界史といえども「理系」しかも「理数科」なので、無意味といえばこれほど無意味な授業はない。地歴公民のA科目とは、受験科目ではなく、教養科目であって、真剣に勉強する科目ではないのだ。でも、せっかくだかから、少しぐらい意味のある授業をやろうと思って、
英文のコンテンツを使う。今日からのテーマは、中国古代から続く、「風水」の話だ。風水といってもの立派な“思想及び宗教”で、中国には3000年の歴史がある。
この英文コンテンツでは、ズバリ、タオイズムであると断定している。ちなみに、タオイズムで検索してみたので、道教の公式サイトっぽいところから引用する。
<コピッペ>
タオイズムとは、「道」TAOの哲学であり、生き方です。
道に添って無為自然に明るく楽しく豊かに生きてゆく
生き方そのものがタオイズムなのです。
TAOとは「道」を表す言葉で
中国の紀元前4世紀ころに書かれたといわれる
『老子道徳経』に説かれています。
そこに説かれている「道」とは
現代の私たちが思っているような
ある場所へゆくための道筋とか
道路とかいう観念とは全く違い
すべての現象や存在の根本であり、真理であると
説かれているのです。
すべてのものは「道」(TAO)から生まれ
生成してゆく
いってみれば混沌としたマグマのようなものであり
真っ黒でつかみ所のないものと表現されています。
その「道」(TAO)は悟りそのもの
本当に広くてゆったりしていて 心地よくて
何者にも左右されない。
あるときは強く あるときは柔軟で優しい。
そして常に変わることなくそこに存在している。
そんな大きな大きな天地自然の母親みたいなものが
TAOであり、「道」なのです。
<コピッペ終わり>
ほらね、なかなか奥深いでしょ。
ちなみに、「風水」に関してワタシが一番感動した本は、
であって、これも検索したら絶版になっていた。これも20年くらい前に読んだ本だ。
授業で、英文のコンテンツを使うことは、今はなき長泉高校時代に技法を開発した。教科書って、まともな日本語で当り障りがなく、真っ当な事実だけを書くいてあるだけでなんにも面白くない。それに比べて、英文のエッセイや、ジャーナリストの記事などは、案外読んでいて面白いものだ。・・・・日本国憲法も英文で授業をやったほうが、本当に面白い。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」なんて文章も
Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.
ってやれば、面白さ10倍である。
アッセンブリーやアソシエーションの自由は、スピーチ、プレス、その他(オールアザー)エクスプレッションの形(フォーム)と同様に(アズ ウエル アズ
)、アー ギャランティード(つまり受動態)。でしょ。
本日の3時間目は、3年生の政経だ。今日は、憲法第9条に突入する予定である。
ここは、矢部宏治さん風に授業を展開する。
<写真は、矢部宏治氏と堤未果女史。2人とも僕の授業によく登場する>
この憲法9条に関しては、完全に護憲派であって、憲法改正反対の立場をとる。
もっと言うと、それより先に、日米地位協定の改正や解消が先だ。いくら憲法9条に自衛隊を明記したところで、日米地位協定が改正されなければ、日本の独立はない。
・・・・・高校生に本当に教えるべきなのは、絶対に「日米地位協定」なんだけれど、ここには、対米隷属の「国家官僚」という果てしなく高い壁が存在して、文科省によって、“あまり大きく扱わない”ようになっている。
・・・・ここまで、教科書を無視していいのか? 読者の方々は疑問に思われるだろう。
この答えは、「ハイ、いいんです」である。
ワタシたち、教員は、文科省から通達される“学習指導要領”という文書に縛られることになっている。しかし、この「学習指導要領」は、本来的に、教科書会社に対して、「このように教科書を作りなさい」という命令書であって、授業内容の命令書ではない。
だから、生徒に「どのような授業を行う」という明言がしてあれば、基本的には何をやっても構わないのだ。
今日頑張れは、楽しい夜が待っている。ホテルも確保したので電車で乗り過ごす心配もない。