全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。 Tommyセンセです。
ということで、
この頃の職員会議の議題によくあがるのが“教職員の多忙化削減”
なんとなく、県教育委員会の方から「教職員の多忙化を何とかしろ!!!!」「教員の多忙化をなくす方策を示せ、実行せよ」という指令がでているみたいだ。
巷間のニュースでもよく取り上げてくださる。
また、多忙化とは違うが、教育現場内の数多くの告発もニュースに取り上げられている。
こんな状況で、教育は大丈夫だろうか?
おそらく、来年度は
「教職員多忙化削減検討委員会」という新しい委員会が、学校内で組織され、必ず平成30年度中に報告書を義務づけられ、
“教職員の多忙化をなくすための方針”を書く作業が多忙化するという、誠に教育的な仕事をしなければならなくなるかもしれない。
我が師、内田樹(うちだたつる)先生も、この頃の教育に関しての文章を氏のブログに載せた。何かの講演録のようで、2016年の言説ではあるが、全くタイムリーな文章である。
内田先生の文は長いので、重要なところをコピッペする。
<コピッペ①>
「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。
でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。
<コピッペ②>
正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。
<コピッペ③>
それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。
<コピッペ④>
まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。
論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少し、競争力は低下している。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。
・・・・・本当はもっと紹介したいのですが、後は内田先生のブログを読んでください。
根本的な理由は、「お金がない」からです。
お金をかけないプロジェクトは絶対に崩壊します。
(お金をかけずに上手くいくのは、お金のかからないシステムでして、国策としての教育はカネがかかるのです)
民間の手法を導入して最小の投資で最大の効果を狙った国もありますが・・・・
まったく、公教育として機能しなくなりました。
今の教育行政は、「お金がないので、貴重な資本を選択的に投入する」という方針です。
したがって、今の現状は「教育現場を選択している」のです。
先ほどの内田先生のブログの結論は、
「教育の現場を選択するのに、均一な指標を用いるのが一番の間違い」と言っていると思います。
そもそも、学校には、それぞれのニーズがあって、そのニーズにしっかりと答えを出していれば、その学校の価値があるといえるのです。
我々、高校教育の現場でも、生徒のニーズに応えているような仕事は、いくら忙しくなっても、あまり多忙感はでてこないのです。
忙しい!!!!!と感じるのは、
「ほとんど意味がないが、やらないと怒られる仕事」が忙しいのです。
①成果報告書
②アンケート
③計画書
(シラバス)
・・・これがバカみたいに忙しい。
振り返って、このワタシ。
あまり忙しいと感じていません。部活動の指導で最前線にいない、というのが一番の理由ですが、もう一つ精神的に多忙感をなくしているのが、
「教科書どおりに教える必要はない」という事実を見つけたからです。
(ワタシの専門教科である、公民の)教科書は、“高校生にあまり教えたくない”というスタンスで書かれています。
“高校生に知られるとヤバイ”ことは必ず隠されています。
この事実を見抜いたとたん、「それほど、言いなりにならなくていいのだ。」と思うようになったら、一気に教員稼業が楽になりました。
・・・・・先生諸君、多忙化の原因は“多忙”ではなく、“多忙感”です。皆様の妙な“公務員気質”が多忙感を高めているのかもしれません。