『この寺社を見ずに死ねるか』を読む |
日ごろ、倫理の勉強でお世話になっている島田先生の軽めの新書。法隆寺をはじめとして、「修学旅行で行った以来行ってないなあ」と思われる神社仏閣を大人になって再訪すると、新たな発見があって面白いよ。」というコンセプトで書かれた本であるが、日本史の勉強本としても充実している。我々日本史を教える先生方(この頃はあまり教えていないが)は、戦国時代の風景でよく見られる「八幡大菩薩」言葉をもっしっかり気づかせないとけない。
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2016年 10月 04日
全国の毒舌ファンの皆さまおはようございます。Tommyセンセです。 ということで、昨日は代休日。たっぷり読書の時間がとれた。したがって、読みかけで終わっていた3冊の本を完全読破。 その一冊が 日ごろ、倫理の勉強でお世話になっている島田先生の軽めの新書。法隆寺をはじめとして、「修学旅行で行った以来行ってないなあ」と思われる神社仏閣を大人になって再訪すると、新たな発見があって面白いよ。」というコンセプトで書かれた本であるが、日本史の勉強本としても充実している。我々日本史を教える先生方(この頃はあまり教えていないが)は、戦国時代の風景でよく見られる「八幡大菩薩」言葉をもっしっかり気づかせないとけない。 これって、菩薩様という仏教用語と八幡神という神様が混在している神仏習合の代表例であるが、これこそ日本の宗教感覚であって、元々は讃岐の金毘羅さまも、愛知の豊川稲荷も、お寺だったのである。それが、明治時代初めの“廃仏毀釈”によって、神様の方に大きくシフトして生き残っているのである。 正反対の例が清水寺であって、これも明治の神仏分離令によって、清水寺と地主神社は切り離された。こちらは、清水寺の方が大きく有名であるので、地主神社は維持管理のために、「縁結びの神社」として生き残りをかけている。 よく、日本人が信仰している宗教は、仏教なのか神道なのか?という疑問を聞くが、このどちらでもありが、奈良時代から江戸時代の、“神仏習合”の形態である。明治のご維新で政治的に強引に引き離しただけだから、庶民の信仰形態は全く変わっていない。 要するに、先祖崇拝(遠いご先祖は神社、近いご先祖は寺院)とお呪い(願掛け、占い)である。まさに正真正銘の「宗教の原始的形態」である。 「るるぶ」とか「じゃらん」を持って、京都の町を歩き、お御籤を引いて、ヒーヒィ・ヒャーヒャー言っている、アホな若い女性達だけが、日本の宗教を本当に体現しているのだよなあ。(ややセクハラ発言)
by tommyjhon
| 2016-10-04 05:47
| 現代社会の授業
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