例の違憲判断に思う |
学校祭の代休(6/8)も終わり、本日から平常授業でござる。とはいうものの、3年生は来週いきなり「第2回校内実力テスト!!!!!」・・気が抜けないのよね。
ということで、先週は、衆議院の憲法審査会で出席した3人の憲法学者が、今回の「集団的自衛権の合憲解釈」は違憲であると意見した件でマスコミをはじめ、日本が大揺れに揺れた。キレた管官房長官(彼は不愉快なときに直ぐに表情に出る)は、「合憲の憲法学者はたくさんいる」と言い放ったが、それは“負け犬の遠吠え”であったほとんどの憲法学者は“違憲”と判断するだろう。
ただし、第9条の解釈だけで憲法学者達が“違憲”と判断するのではあるまい。この時期に、安倍政権のでの“解釈変更”が違憲だと判断している感じがする。聞くところによれば、参考人で呼ばれた教授たちは「立憲主義」のもとに反対論を言ったらしいのだが、まさしくその通りであって、安倍政権の姑息さが丸見えのこの国会審議であるからだ。
ワタシは、自民党政権の解釈変更に賛成しているといわれる、西修教授の本を読んでいる。
正直に言えば、憲法問題に関しては、小室直樹先生からだけしか勉強していなかったので、西修氏の本からは本当にたくさんのことを学んだ。当然、授業で使う。(改憲派とか護憲派という薄っぺらい授業ではない)
西修氏の論説はある意味で、もちろん正しいと思う。集団的自衛権容認への解釈変更が、憲法違反ではないという意見がすべて間違っているわけではない。
しかしながら、ワタシは、現状の安倍政権でのこの法案審議はすべて間違いであるという判断である。今の安倍政権に「集団的自衛権の解釈変更」をする資格はない。ここが第一の論点である。それこそ“立憲主義”であるからだ。ただし、ここで立憲主義という場合、「憲法に立脚した」ではなく、「憲法の精神に基づいた」ということになる。なぜならば、憲法は当然の如く100%正しいものではない。政治上・歴史上、起こりうるすべてのことを想定して書かれてはいない。私達は、イギリスを立憲主義の国というが、イギリスは憲法を持っていない(こんなんは中学校くらいで教わっている)。立憲主義の精神こそが大切なのだ。
さて、ではその立憲主義の精神というのは、もちろん国民主権である。最終的に国家のあり方を決めるのはどんなときであれ“国民”であるべきなのだ。
しかし、この安倍政権は、昨年の12月に突如、解散総選挙を行い、その時の争点を「アベノミクスに対する信任」として勝利した政権である。決して、「集団的自衛権の解釈変更」を争点にした政権ではない。あの時点では、自民党(戦後一貫して政権をとってきた責任政党)としては、「集団的自衛権は保持しているが行使できない」という解釈が生きていた。だから、国民は、(このあたりはワタシとしては意見が違うところだが、)アベノミクスに関する信任を昨年の12月に行ったのである。
だから、もし、このような国家そのもの存在、憲法そのものの意義を政治判断する場合は、必ず、これを争点にして選挙を行わねばならない。そのような選挙をもとに政権を担当しなければ、かのヒトラーと同じである。かれも合法的に政権をとった後に、全権委任法を議会にとうしたのだ。
もっとちっちゃいことだが、自民党は、「TPP反対」とポスターに書いていながら、TPPを積極的に結ぼうとしている。
こういう「政策を選挙に問わない国民騙し政権」は絶対に許してはいけない!!!!
こういうと、自民党の連中は、あの時のマニフェストには書いてありましたと必ず言い訳するが、争点を「アベノミクスの是非」と自分たちで言っているのだから、完全に騙しである。
こんな騙し政権が、堂々と立憲主義の精神で、国民の賛同を得ているなどと言ってはいけないのである。
だから、昨年12月の総選挙のあと、
「この勝利で、政権運営は、憲法の集団的自衛権行使への解釈変更に焦点が移っていくでしょう」などと、能面のように無表情でコメントしているテレビの解説者どもも、全員が立憲主義の精神のカケラもないいい加減な人間である。
日本のマスコミと官僚と財界がグルになって、叩きつぶした“鳩山・小沢の民主党政権”は、自分の公約である、「沖縄米軍基地の少なくても県外移転」という公約が果たせなくなった時点で潔く政権の座をおりた。
マスコミがあの精神を尊重するならば、「公約に書いていないことを平気でやる自民党」も叩きつぶさなければいけないはずだ。