狂乱の学校祭で考える「公民の先生」の資質 |
ということで、某S水東高校では、昨日が学校祭初日、本日が一般公開でございます。この狂乱の騒ぎだけで一日を過ごす“学校祭”を無駄なものであると断定する先生方もいないわけではないのですが、ワタシは“お祭り”大賛成派、もっともっとドンドン派手にやればいい(と、心の中では思っています)。
学校祭の目玉は各学校それぞれあるでしょう。昔勤務していた(出身校でもある)某F高の主流はあくまで文化部であった。現在の勤務校では3年のHR展示が主流となっている。別にHR展示といっても、展示しているのではなく“お遊びコーナー”である。よくよく考えれば、幼稚園のお遊び会が大規模になっただけの感じがしないわけでもない。ただし、学校祭の内容がどうであれ、下品か上品かの基準がどうであれ、学校祭の主役が3年生であることには間違いない。これから社会へ旅立っていく3年生諸君が、社会人として成長していく第一歩である。
学校祭は、マネジメント能力を学ぶ場として高校教育に設定されてる。「時間がない」「金がない」「人手が足りない」「誰も協力してくれない」「無駄だからやめなさい」。こういうナイナイづくしの中で、どのように他人を感心させられるか?を必死になって考える場なのである。そうして日頃の鬱憤晴らしを最大限に作り出すことが大事なのだ。
だから、学校祭の「文化部展示」や「HR展示」の評価規準の一つが“どれくらいくだらないか”であることは重要である。学校という限られた領域の中で、高校生という限られた人材の中で、どれくらい壮大な資源(リソース)の無駄遣いをするか?というくだらなさが、重要なのである。
経済の中で「合成の誤謬」というのはご存じだろう。各個人が金持ちになろうとしてがっつり貯蓄をする。もちろんその個人は金持ちにはなるが、社会全体が、がっつり貯め込むと逆に消費が激減し経済が停滞して全体としては貧しくなるというものだ。
高校生は、日頃、「入れろ入れろどんどん頭に入れろ」と教えられる。「余計なことはするな」「無駄遣いは止めろ」と指導される。しかし、これだけでは学校生活は豊かにならない。「はき出せはき出せどんどんはき出せ」「余計なことまでやれ」「無駄なことでもバンバンやれ」という動きがないと学校全体は豊かにならないのだ。そうやってバランスをとる行事が学校祭である。
某S水東高校の学校祭は今日で終わる、午後3時を過ぎると膨大なゴミが排出される。あのゴミの山を見て「これぞ本物の経済学のお勉強だ」と理解できないとダメなのだ。
加えて、今年は学校祭を見ていてまた新しいことを一つ発見した。この発見はのちの授業でも使う。経済分野ではなく、政治分野でのことだ。
日頃、我々教員は(つまり学校では)、「ああしなさい」、「こうしなさい」、「これだけは最低限やりなさい。」「これだけは最低限理解しなさい」「時間を有効に使いなさい」「英語の予習は絶対やりなさい」「部活の準備としてこれとこれをやりなさい」「毎日のお当番は、ご用聞きとクラス日誌は絶対やりなさい」と指導する。
つまり、「言われたことはやれ!」と教える、
しかし、学校祭の準備の中では、「画鋲は禁止」「ポスターは200枚まで」「完全下校は19:00」「華美な服装はダメ」「七夕飾りの立体オブジェはダメ」「パフォーマンスの制限時間は5分」「メイク禁止」・・・・・・・・
と教員の指導方針が一変する。
つまり、「言われたこと以外はやっていい!」と教えられるのだ。
そして、これは「法律学」の中では極めて重要な概念である。もちろん法律学ではしっかり定義されていて「言われたことをしかやってはいけない」というのを●●リスト、「言われた以外のことはやっていい」というのを○○リストというのだが、これは次の「研究授業」のネタなのでここでは教えない。
しかし、教員生活ももうそろそろ30年になろうとしているのに、またもや、「社会とか人生とか」について重要なことを“新しく知ってしまった”いやはや何とも情けない気持ちと、新しく発見できて嬉しいという気持ちが半分半分である。
そう言えば、今年は近年になく“発見した”ことが多い。教師として、「定理」をすでに2つも発見している(厳密にいうと3つ)
その一つは、「医者になろうとするモチベーションは、夢や希望ではなく、意地(プライド)である」「医者は7割公務員だ」
二つ目は、「第一の夢をかなえるために、高校などの教育機関があるのではない。夢破れたときに、路頭に迷わない為に教育が必要である」
という新発見!!!!!