2014年 10月 15日
今日は51回目の誕生日である。 |
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。 Tommy先生です。
ということで、本日はワタシの51回目の誕生日であります。
JFケネディ大統領が暗殺された1963年に命を授かり、今まで何とか無事に過ごしてまいりました。
そして、教員生活28年、そろそろ先も見えてきました。おそらく、この某S水東高校でキャリアを終わるでしょう。もう、校長とか副校長とか教頭先生とかいう管理職にもなりません。いや、なれません。ああいう“そつのない”“手堅い”仕事は向いていません。そもそも、このようなブログを初めてしまった14年前からあきらめていました。
この某S水東高校は、県下有数の“高齢化”地域ですので、60歳近辺になっても担任をしている先生や、○○部長(○○課長)の激務をこなしている先生がうじゃうじゃいます。ワタシも同じように、定年間近までこき使われると思われます。
この51年間で、無事結婚し、子供にも恵まれ二人とも大学まではたどり着きました、あと3.4年、仕送りを続ければ子育ても終わります。家も、1997年の消費税5%アップ前の駆け込み需要の時に買ってしまいました。ローンは終わりましたが、地価は半値以下に下がっており、日本政治と日本経済の迷走を心の底から恨んでいます。
家の次に大きな買い物は自動車ですが、「第3、第4のメーカーを応援する」ために、三菱自動車・スバル(富士重工)・マツダと乗り継いできました。今の車を10くらい乗ったら、スズキに乗り換えてマイナーメーカー完全制覇を達成する予定です。(ホンダは女房が乗り続けています)昨日の18万円という大きなお買い物は、マツダCXー5(セーックスファイブと発音するのが本当です。こういうことを言うからら校長になれないのです)につける、アルミホイールとスタッドレスタイヤのことです。
さて、齢50を過ぎ、物欲もそれほどなくなり、ある一つを除いて“買いたい! 欲しい!”という品もなくなりました。バイクや自転車や船も欲しいと言えば欲しいのですが、なくても我慢できます。モバイル系IT機器は、この頃劣化が激しい視力(つまり老眼てこと)のせいで欲しいとも思いません。愛人は欲しいなとは思いますが現実的に無理でしょう。
その一つだけ欲しいものは、お墓です。今度住むことになるであろう、半畳ほどの場所を早く買って落ち着きたいのです。そうしないと安心できません。女房や子供達には宣言してありますので近々購入する予定です。富士宮の朝霧方面か富士市の丸日自然公園の分譲墓地の話を息子にしたところ、「遠い!!!」と嫌がられました。読者の皆様、富士市内で適当な分譲墓地がありましたら、是非ご紹介下さい。
なぜ、墓地にこだわるかというと、さっさと買って「墓」を建ててしまわないと、死んだときのどさくさに紛れて、「寺」に埋葬されてしまう恐れがあるからです。近頃終活ビジネスとまで名を変えて大流行している葬式ビジネスの厳しさは、葬式を出したものでないと判りません。親族がぼーっとしている間にどんどんペースを握られて、葬式ビジネスの食い物にされしまいます。ワタシは、周囲から見ると本当に勝手な生き方をしてきましたので、最後まで勝手流で死にたいのです。ワタシらしい、“ふざけた墓”が理想です。墓を買ったら次は“理解のある石屋さん”探しをします。アサヒビールの本社ビルのオブジェみたいなのがいいなあ。
「勝手流な死に方」とは、ワタシが教員生活28年間で知り得た、重要な「知見・発見」です。
教員生活28年間で教えた科目は、「現代社会」「日本史」「政治経済」が主です。ある意味、この3科目は、制覇してしまいました。もちろん、その道の研究者には絶対勝てませんが「教える」ことは簡単にできます。ところが今現在、「倫理」という壁が立ちはだかりワタシの「お気楽教員生活」の道を阻んでおります。ここ数年は、「哲学」「道徳」「宗教」などが勉強の中心となっています。そこで、ハッキリと気づいたのが、「宗教」という名の支配です。
ギリシア時代、神様は好き勝手で気ままな、まるで人間のような人々でした。セイラームーンはギリシア神話から名前をパクっていますが、ある意味自然です。その時の哲学者達は、まるで死を恐れていません。有名なのがエピクロスです。「生きている限り、死は存在していない。死が訪れると、生命はもうない。したがって、死は無関係、気にしなくてイイ」とまでいっていました。
ところが、その後、誕生したキリスト教もイスラム教も本来人間とは無関係なはずの、“死後の世界”をどんどん勝手に作り上げてきました。仏教もそうです。本来誰も経験しないはずの、「あの世」とかを浄土とかいって勝手につくりだして、今生きている人間に「死の恐怖」を煽り続けたのです。
イエスも仏陀も、本来は「死後の世界」のことなど一言も口にしていません。2人とも「右のほほを打たれたら、左のほほをさしだす」ような、「支配下の民が苦しむ様子を見て、悲しくなって王家を捨ててしまう」ような、イイ人だったのです。その生き方が素晴らしかった人です。ところがところが、イエスの後継者達、仏陀の後継者達は、自分達の存在を権威づけたいがために、イエスや仏陀を地上から切り離し、ずーーと見えない「天」において、民衆と「天」の間を、「死後の恐怖」を植え付けて支配してきたのが、「教会」であり「寺院」であったのです。それが、彼らの仕事(喰っていく道)だったのですよね。
このことは、すでに、ニーチェが「神は死んだ」とか、「キリスト教はルサンチマン(怨念)によよってつくられた奴隷道徳だ」とかいって、ものの見事に看破しています。
しかし、現代社会で、「死が訪れると生命はもうない」とか「神は死んだ」といくら叫んでも、2000年間に染みついてきた、「葬式宗教」によって踏みつぶされてしまいます。
日本は日本で、徹底した先祖崇拝による宗教観の国ですから、先祖の霊が存在すると信じ込んでいます。「霊」などあるはずがありません。死んだら何もなくなるんです!!!!!!! ところが、これも「お寺」支配によって、1周忌とか3周忌とかいって強制的に供養させられます。
ワタシが、早く墓を作りたいという理由は、“今の死生観はあくまでも宗教によって人為的に作られたものである”ことを最後の最後に身をもって教えたい。“人間はあくまでも自由である”というルネッサンスからサルトルまで延々と語られてきた真実を最後の最後まで教えたいという信念の現れです。
現代社会の中で、知らず知らずに奴隷化している人間達に何かメッセージを残して教員生活を終わろうではありませんか!!!!!
理科の先生方はよく言います。「実際にやって見せるのが授業の本質だ」と。やはり、先生たるものは、「やってみる」ことが絶対必要なのです。ワタシは日本以外の国でくらしたことがないので「世界史」と「地理」は絶対に教えられません。「倫理」を教える者として、「死生観を教える」とために、「やってみせる」チャンスは、一回しかありません。そして、もうすぐワタシの最後のチャンスが迫ってきています。だから、「本来自由である人間」を具現化するための「お墓」は是非とも早く欲しい。
ということで、本日はワタシの51回目の誕生日であります。
JFケネディ大統領が暗殺された1963年に命を授かり、今まで何とか無事に過ごしてまいりました。
そして、教員生活28年、そろそろ先も見えてきました。おそらく、この某S水東高校でキャリアを終わるでしょう。もう、校長とか副校長とか教頭先生とかいう管理職にもなりません。いや、なれません。ああいう“そつのない”“手堅い”仕事は向いていません。そもそも、このようなブログを初めてしまった14年前からあきらめていました。
この某S水東高校は、県下有数の“高齢化”地域ですので、60歳近辺になっても担任をしている先生や、○○部長(○○課長)の激務をこなしている先生がうじゃうじゃいます。ワタシも同じように、定年間近までこき使われると思われます。
この51年間で、無事結婚し、子供にも恵まれ二人とも大学まではたどり着きました、あと3.4年、仕送りを続ければ子育ても終わります。家も、1997年の消費税5%アップ前の駆け込み需要の時に買ってしまいました。ローンは終わりましたが、地価は半値以下に下がっており、日本政治と日本経済の迷走を心の底から恨んでいます。
家の次に大きな買い物は自動車ですが、「第3、第4のメーカーを応援する」ために、三菱自動車・スバル(富士重工)・マツダと乗り継いできました。今の車を10くらい乗ったら、スズキに乗り換えてマイナーメーカー完全制覇を達成する予定です。(ホンダは女房が乗り続けています)昨日の18万円という大きなお買い物は、マツダCXー5(セーックスファイブと発音するのが本当です。こういうことを言うからら校長になれないのです)につける、アルミホイールとスタッドレスタイヤのことです。
さて、齢50を過ぎ、物欲もそれほどなくなり、ある一つを除いて“買いたい! 欲しい!”という品もなくなりました。バイクや自転車や船も欲しいと言えば欲しいのですが、なくても我慢できます。モバイル系IT機器は、この頃劣化が激しい視力(つまり老眼てこと)のせいで欲しいとも思いません。愛人は欲しいなとは思いますが現実的に無理でしょう。
その一つだけ欲しいものは、お墓です。今度住むことになるであろう、半畳ほどの場所を早く買って落ち着きたいのです。そうしないと安心できません。女房や子供達には宣言してありますので近々購入する予定です。富士宮の朝霧方面か富士市の丸日自然公園の分譲墓地の話を息子にしたところ、「遠い!!!」と嫌がられました。読者の皆様、富士市内で適当な分譲墓地がありましたら、是非ご紹介下さい。
なぜ、墓地にこだわるかというと、さっさと買って「墓」を建ててしまわないと、死んだときのどさくさに紛れて、「寺」に埋葬されてしまう恐れがあるからです。近頃終活ビジネスとまで名を変えて大流行している葬式ビジネスの厳しさは、葬式を出したものでないと判りません。親族がぼーっとしている間にどんどんペースを握られて、葬式ビジネスの食い物にされしまいます。ワタシは、周囲から見ると本当に勝手な生き方をしてきましたので、最後まで勝手流で死にたいのです。ワタシらしい、“ふざけた墓”が理想です。墓を買ったら次は“理解のある石屋さん”探しをします。アサヒビールの本社ビルのオブジェみたいなのがいいなあ。
「勝手流な死に方」とは、ワタシが教員生活28年間で知り得た、重要な「知見・発見」です。
教員生活28年間で教えた科目は、「現代社会」「日本史」「政治経済」が主です。ある意味、この3科目は、制覇してしまいました。もちろん、その道の研究者には絶対勝てませんが「教える」ことは簡単にできます。ところが今現在、「倫理」という壁が立ちはだかりワタシの「お気楽教員生活」の道を阻んでおります。ここ数年は、「哲学」「道徳」「宗教」などが勉強の中心となっています。そこで、ハッキリと気づいたのが、「宗教」という名の支配です。
ギリシア時代、神様は好き勝手で気ままな、まるで人間のような人々でした。セイラームーンはギリシア神話から名前をパクっていますが、ある意味自然です。その時の哲学者達は、まるで死を恐れていません。有名なのがエピクロスです。「生きている限り、死は存在していない。死が訪れると、生命はもうない。したがって、死は無関係、気にしなくてイイ」とまでいっていました。
ところが、その後、誕生したキリスト教もイスラム教も本来人間とは無関係なはずの、“死後の世界”をどんどん勝手に作り上げてきました。仏教もそうです。本来誰も経験しないはずの、「あの世」とかを浄土とかいって勝手につくりだして、今生きている人間に「死の恐怖」を煽り続けたのです。
イエスも仏陀も、本来は「死後の世界」のことなど一言も口にしていません。2人とも「右のほほを打たれたら、左のほほをさしだす」ような、「支配下の民が苦しむ様子を見て、悲しくなって王家を捨ててしまう」ような、イイ人だったのです。その生き方が素晴らしかった人です。ところがところが、イエスの後継者達、仏陀の後継者達は、自分達の存在を権威づけたいがために、イエスや仏陀を地上から切り離し、ずーーと見えない「天」において、民衆と「天」の間を、「死後の恐怖」を植え付けて支配してきたのが、「教会」であり「寺院」であったのです。それが、彼らの仕事(喰っていく道)だったのですよね。
このことは、すでに、ニーチェが「神は死んだ」とか、「キリスト教はルサンチマン(怨念)によよってつくられた奴隷道徳だ」とかいって、ものの見事に看破しています。
しかし、現代社会で、「死が訪れると生命はもうない」とか「神は死んだ」といくら叫んでも、2000年間に染みついてきた、「葬式宗教」によって踏みつぶされてしまいます。
日本は日本で、徹底した先祖崇拝による宗教観の国ですから、先祖の霊が存在すると信じ込んでいます。「霊」などあるはずがありません。死んだら何もなくなるんです!!!!!!! ところが、これも「お寺」支配によって、1周忌とか3周忌とかいって強制的に供養させられます。
ワタシが、早く墓を作りたいという理由は、“今の死生観はあくまでも宗教によって人為的に作られたものである”ことを最後の最後に身をもって教えたい。“人間はあくまでも自由である”というルネッサンスからサルトルまで延々と語られてきた真実を最後の最後まで教えたいという信念の現れです。
現代社会の中で、知らず知らずに奴隷化している人間達に何かメッセージを残して教員生活を終わろうではありませんか!!!!!
理科の先生方はよく言います。「実際にやって見せるのが授業の本質だ」と。やはり、先生たるものは、「やってみる」ことが絶対必要なのです。ワタシは日本以外の国でくらしたことがないので「世界史」と「地理」は絶対に教えられません。「倫理」を教える者として、「死生観を教える」とために、「やってみせる」チャンスは、一回しかありません。そして、もうすぐワタシの最後のチャンスが迫ってきています。だから、「本来自由である人間」を具現化するための「お墓」は是非とも早く欲しい。
by tommyjhon
| 2014-10-15 04:01
| 現代社会の授業
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Comments(2)

前世や死後の世界については現在は医師からも真面目に研究されてますよ
日本では稲垣勝巳さんのラタラジューの事例の退行催眠で『応答型真性異言』という学んだことのないネパール語をしかも会話できたという懐疑派の虚偽記憶説でも説明できない実験の成果があります。
動画
http://www.youtube.com/watch?v=BxYHCD_qWu8#t=38
脳神経外科医院のエベン・アレグザンダー医師も自らの体験で認めてる他、エベン医師の事例以外にも東大の臨床医院の医師の矢作直樹医師も例えば隣の部屋で行なわれていた手術の様子や、待合室にいる人々の服装や姿勢、病院の前に停めてあった自転車の数、何キロも離れた場所のアパートで起きていた特殊な出来事など、身体からずっと離れた場所で起こっていたことを正確に描写できたという事例などは脳内現象説では説明がつかないと言っています。
そもそも精神は脳が生み出しているという唯物論も証明はされていなく一つの仮説です
中には、視覚障害者の人々が、臨死体験をまるで見てきたかのように語る事例もある。それらはみな本人が知ることのできない情報であるはずだが、その後の綿密な検証により、事実であることがわかっています
ボク的には研究を見ると肯定、否定の中間です
幻覚説の説明を聞けば納得部分あるが残りの部分は幻覚ではどうしてもしっくりきません
生まれ変わりについてはイアン・スティーヴンソンの「前世の言葉を話す人々」と笠原敏雄『超心理学読本』の著書を勧めます
日本では稲垣勝巳さんのラタラジューの事例の退行催眠で『応答型真性異言』という学んだことのないネパール語をしかも会話できたという懐疑派の虚偽記憶説でも説明できない実験の成果があります。
動画
http://www.youtube.com/watch?v=BxYHCD_qWu8#t=38
脳神経外科医院のエベン・アレグザンダー医師も自らの体験で認めてる他、エベン医師の事例以外にも東大の臨床医院の医師の矢作直樹医師も例えば隣の部屋で行なわれていた手術の様子や、待合室にいる人々の服装や姿勢、病院の前に停めてあった自転車の数、何キロも離れた場所のアパートで起きていた特殊な出来事など、身体からずっと離れた場所で起こっていたことを正確に描写できたという事例などは脳内現象説では説明がつかないと言っています。
そもそも精神は脳が生み出しているという唯物論も証明はされていなく一つの仮説です
中には、視覚障害者の人々が、臨死体験をまるで見てきたかのように語る事例もある。それらはみな本人が知ることのできない情報であるはずだが、その後の綿密な検証により、事実であることがわかっています
ボク的には研究を見ると肯定、否定の中間です
幻覚説の説明を聞けば納得部分あるが残りの部分は幻覚ではどうしてもしっくりきません
生まれ変わりについてはイアン・スティーヴンソンの「前世の言葉を話す人々」と笠原敏雄『超心理学読本』の著書を勧めます
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追記
私は上記の事例や現代でも死後の世界を信じ真面目に研究している学者もいる事実から死後の世界や生まれ変わりは存在するしないは置いといて宗教が扱うことが多いだけで決して宗教に限ったものでも人間が作り上げたものではないと思います
死後の世界をビジネスや悪用するから死後の世界は妄想と解釈するのは乱暴だと思います
私は上記の事例や現代でも死後の世界を信じ真面目に研究している学者もいる事実から死後の世界や生まれ変わりは存在するしないは置いといて宗教が扱うことが多いだけで決して宗教に限ったものでも人間が作り上げたものではないと思います
死後の世界をビジネスや悪用するから死後の世界は妄想と解釈するのは乱暴だと思います