2024年 03月 19日
還暦老人「かるた部顧問となった時」を語る |
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、好評連載中の思い出を語るの記。
ここからは、競技人口的にみると相当マイナーな競技である、「小倉百人一首かるた競技」(略して競技かるた、ただのかるた)に関する記述が多くなる。無関係な読者の方が圧倒的に多いかもしれないが、そもそもワタシがHP(ホームページ)を始め、途中からブログに移行しながらもかれこれ20年間もキーボードに文章を打ち込んでいるきっかけは、「全国の富士高かるた部のOBOG達に、現役部員の活躍を伝えたい」との一念であった。なのですべてが関連付けられるものであるから仕方がない。
ワタシは富士高かるた部の第12代目の部員であって、当時の静岡県立富士高校かるた部は、名実ともに日本一のかるたクラブだった。昭和の時代、高校でかるた部なんて活動が全国的にそれほどあるわけでもなく、富士高の目標は、全国職域学生かるた選手権大会(職場のチームや大学生チームを相手にする団体戦の全国大会)であって、この大会に10回優勝していた。在学中に「全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会」なるものが設立され、大会運営するかるた会の重鎮たちは、この大会を「畳の上の甲子園」と位置づけようとしていた。今や、どの業界でも存在する“●●の甲子園”という名称の嚆矢となった大会でもある。この全国大会の第一回大会は私が高校1年の時に初めて開催されたが、その時の参加校はわずか8校、参加するだけで全国大会ベスト8だったのである。どれだけマイナー競技かお分かりだろう。結局、静岡県立富士高等学校はこの大会で初回から10連覇を果たすことになるのだが、この連覇を阻むのが、これから登場する(今はなき)静岡県立長泉高等学校だったのである。 (ネットで拾った今は亡き長泉高校)
さて、時計の針を逆戻りさせて初任高であった下田南高校3年目の3月に話を戻す。ワタシ達夫婦(この時はまだ結婚していないけど)は揃っての転勤を希望した。相方は養護教諭であって、高校では必ず1名いる保健室の先生である。どこにでも需要がありどこでも仕事が出来る。我々教員は、「部活動の指導がしたい」と考えて教員になる者が半数以上存在し、その部活を指導することが教員生活何よりも大事なことだった。今やこの比率がどんどん低下して、部活拒否の教員の方が多いくらいなのだが、ワタシが採用された時代はバブル真っ盛りで他の仕事もうじゃうじゃあり、初任給も数段高かった。ではなぜ高校教員なのか?この答えを部活抜きで探すのは困難である。高校に戻りたいのではなく、部活に戻りたかった。これから何回もでてくるが、富士高校百人一首部はそれほど魅力的であったのだ。
ワタシは、当然、(実際は沼津商業なのだけれど)富士高校に転勤するものとばかり思っていた。その理由は、全国選手権連覇中とはいえ、当時富士高校は、創部から10年以上率いてくれた指導者(これが栗栖先生)が転勤されて以来、本格的に競技かるたを指導できる教員が母校に赴任していなかったからである。ワタシはもちろんそのことを自覚していた。したがって、うちの奥さん(当時はまだ婚約中?)が富士からそれほど遠くない場所であったら嬉しいなあ????と想像していた。
ワタシの先輩で、本格的に競技かるたを指導していたのは4つ先輩の嶋先輩(現、静岡県かるた協会会長・元某F宮西高校校長)だが、嶋先輩は一足早く、競技かるた部のある長泉高校で指導を始めていた。この長泉高校とは、静岡県東部地区の長泉町(現在は移住したい町のベスト10に輝く、三島駅近隣の町)に新設された高校で、恩師栗栖先生(もうイニシャルトークでは混乱してしまうので本名)が学校創設以来関わっていた高校である。栗栖先生がかかわるのならかるた部が出来るのは当たり前だ。栗栖先生の偉業は一冊の本にまとめられるべき多さであって、その一つが、「転勤された学校でかるた部を作りまくった」ことである。沼津市立高校・富士高校・沼津東高校・(元)長泉高校と創部しまくり、次の転勤で教頭先生になっていった。(ここからはさすがに無理)。
(元)長泉高校は、栗栖先生が創部され嶋先生が2代目顧問となっていたのである。
ところがだ、下田南からの転勤で、2人に渡された辞令は驚愕のものとなった。転勤するはずの富士高校の養護教諭に女房(まだ結婚していないけど)がなり、ワタシが沼津商業というのである。
「えっ?」
「あっ あっ そうなんだ」
結果的に奥さんの勤務校(沼商時代に結婚した)となった富士高校は、我が家においてもかけがえのない高校となり、長男は「養護の先生に初めての赤ちゃん!!!!!」という見出しで富士高新聞(これも有名、一時期私が顧問を務めたこともある)に載せてもらった。その後、彼は富士高校に進学することになる。この長男アロー君は、高校入学もしていないのに富士高の内情を良く知っているマセたガキに成長していった。次男殿も「養護の外山先生に2人目の赤ちゃん!!!!!!」となって富士高新聞に載せてもらった。次男殿は、我が家での会話で多くなった「八木話」(ワタシが富士高時代にともに勤務した、伝説の野球部監督にまつわる話)の影響を受けて高校野球で甲子園を目指すことになる。
そしてワタシ。沼津商業時代、剣道部を任されていた。もともと他の部活(競技かるた以外)に興味のないワタシが、部活指導に熱がはいるわけなどなかった。しかも、長い経験がものをいう武道の世界である。部活には他の若手教員と比べて没頭できずにいた。剣道部の顧問といえど道着を着ることもなければ面や胴をつけることもなかった。当然、中学生を勧誘することもなく、中学から志望されることもなく、(昔はインターハイにも行っていたらしい)沼商剣道部は弱体化していった。沼商にワタシのいる場所はない。
そんな悶々とした日々を送っていた3年目(3年とは移動できる最低期限で、3年たつと移動の対象になる)、嶋先生からは強烈なオファーをもらっていた。「長泉高校で一緒に顧問をやろう!!!!!!」
これは、ワタシにとって魅力的な誘いだ。だって、夫婦は同じ学校に勤務できないというルールがあり、その時点で競技かるたを指導できる学校は、沼津東か長泉高校しかなく、誘ってもらえるのは幸せの極致だったのだ。
3年目の冬、周りには黙って“転勤希望”を書いた。当時は20代の若手教員であって、1年生の担任をしていた自分を、周りの同業者たちは「転勤できるはずがない」と思っていただろう。ここでの転勤は裏切り行為である。ワタシもそんなことは無理だろう。転勤できるわけがないと確信していた。
ところがだ、いざこの時期(本当に3月中旬の今の時期だ)に校長室に呼ばれ、「長泉高校に転勤だよ」と告げられる。
これは、相当な力学が働いたのであろう。噂には数々上がり、業界中枢部では当然のように行われ、ただし誰も存在を公的には認めていない、あの「人事上の力学」という作用に違いなかった。ワタシは、“引っ張られた”のだった。
後日、恩師栗栖先生(教育業界中枢の人になっている)からは、「あの時は、相当強引だったなあ」「K先生(当時のN高校校長)も思い切った手を打ったなあ」とだけ言われたことがある。
そうして沼商を逃げるように飛び出し、念願の(かるた部のある)長泉高校に転勤する。しかも、先輩の嶋先生も一緒だ。一番いい形の若手指導者として迎え入れられた。新設の長泉高校は若手教員の数も多く、教員間のお付き合いも楽しかった。
さて、そんな形で競技かるたの世界に復活したワタシは、恒例の4月29日、さがみの大会A級にエントリーし、顧問としてだけでなく競技者としても復活する。別にそれほど強い競技者ではなかったが富士高かるた部出身者としてワタシの顔をしっている方は多かった。(なにせ、競技人口の少ない世界なので)
このさがみの大会の1回戦の相手が東村亜子さんだった(長泉高校OGで、長泉高校を2度目の全国優勝に導いた伝説の名選手)。これも何かの縁だなあ。
さて、このさがみの大会で大きな出来事が起きる。
部活動にそれほど熱心でなかったワタシは、常に遊びのことばかり考えていた。得意はスキーを代表とするアウトドアで、スキーのオフシーズンには、マウンテンバイクも2台そろえ、カヌーも手に入れていた。
長泉高校かるた部の引率第1回目、赴任してすぐのさがみの大会。生徒は三島駅から電車に乗り藤沢駅で小田急線に乗り換えて会場に向かう。ワタシは、住んでいた(富士高の教員住宅)場所から、このマウンテンバイクに乗って富士駅まで向かい、三島駅で生徒に合流した。
かるたの大会は勝ち続けると帰りが(異様に)遅くなり、その日も、富士駅に着いたのは11時ごろだった。
そして、駐輪場に行ったが、肝心のマウンテンバイクがない。チェーンをつけたはずなのにマウンテンバイクがない。交番の人は、盗難届を受け付けてくれながら「このタイプは人気がありますからねえ」と半ばあきらめ顔で淡々と盗難届を受け取った。
こうして、かるた部の顧問生活に入るとともに、「お気楽レジャー教員」の夢を捨て去ることになる。
マウンテンバイク(15万くらいした)もそうだが、カヌー(30万円した)からも離れざるをえなかった。
そうして、家庭での子育てを無視した「部活だけの教員人生」が始まることになったのだ。
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by tommyjhon
| 2024-03-19 05:44
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