全国の毒舌ファンの皆さま あけましておめでとうございます。 Tommyセンセです。
本日は言うまでもなく 2016年(平成28年)元旦でございます。
したがって 年頭所感 なるものを書きましょう。
1)老いの戦い
45歳を過ぎてから体に変調をきたし、我が「老い」は確実に進行しています。そのとき発症した「脊椎すべり症」はいろいろな体操の効果もなくますます体の動きをぎこちなくしています。特に朝は全然動きません。体のクイックな動きはほとんどできず、横断歩道での点滅信号では軽く涙します。私にできるスポーツは、昼間の体調が良い時に、だらだらと足を動かすだけの、「山登り」&「スキー」程度になってしまいました。体を捩じったり捻ったりする運動はほとんどできません。
そして、就寝時無呼吸症候群も悪化しているそうです。(無自覚なまま)
また、昨年一年間、高血圧と戦いましたが、平常値への復帰を果たすことが出来ませんでした。現在は、西洋医療に屈し、薬を飲んでいます。
そしてそして、
どうやら、「顔の右半分がむくんで、顔が歪んでいく症候群」も発病したようです。
読者の皆さんは経験ありませんか? 両手で顔を覆うと、伝わってくる感覚が左の手と右の手とでは違ってくることを。
ワタシの場合、左右の掌に伝わる皮膚の感覚が全然違うのです。左の手では、ダイレクトに顔の骨を感じることができますが、顔面の右半分はどうも皮膚と骸骨の間に何かが挟まっているような感じがするのです。特に眼球の上の方が膨らんでいるようです。
僕の顔はどうなってしまうのでしょう?
2)終活
ということで、少し「終活」を早める必要がでてきました。今年こそは、次に住む予定の畳半畳ほどの土地を手に入れるようにします。
昨年から少しずつ始めた「葬式研究」では、散骨は案外面倒であるということに気が付きました。しかも高額です。
本当は、『未来少年コナン』のラオ博士のような葬式が一番カッコいいのでしょうが、あれを一庶民がやるとなると相当な法律の壁と金額の壁があるようです。
今年こそ、自分のお墓を買い(予約すること)、葬儀屋との契約をしようと思います。
なぜ、ここにこだわるのかというと、
仏教もキリスト教も実は「大嘘つき」であって死に関しては、ギリシアの哲学者エピクロスの生き方を学んだからです。
<エピクロスの言葉>
「死はわれわれにとって無関係である。なぜなら、われわれが現在するときには死は現在せず、死が現在する時にはわれわれは存在しないから。」
このように、死とは“現在する時には現在しない”ものなのです。したがって、人間は「死」を迎えた瞬間に「他人によって動かされる遺体」だけになるのです。
今までは、そのようにして遺体になった瞬間から“遺族”とか“親族”とか“宗教つか”“葬儀ビジネス”にゆだねられるのです。ワタシは、最後の最後まで「自分でありたい」のです。
倫理的には、「QRL クヲリティ オブ ライフ」といいます。
人間が骨となり有機物によって分解されもう一度土となるまでを、自分の意志で行うこと。これを終活といいます。
2016年は、この活動に力をいれます。
3)仕事に生きる。
昨年、職場のある上司がこんなことを言っていました。「定年後が、新しい人生だ」と。そして少しその言葉に憤りを感じました。我々サラリーマン&公務員(特に、これといった技量も技術もない公務員)にとって、定年後というのは、人の税金で生かされているだけの状態なのです。何も生産的な仕事をしないまま、年金だけをもらって生きていくだけの生活なのです。だから、普通の公務員にとっては、定年後は“無駄”以外にありません。「定年後が新しい人生だ」とは、なんと横柄な言い方でしょう。
でも、それなりに仕事ができる60歳までは、ちゃんと社会に貢献できます。
ワタシも定年まであと10年をきりました。それまでは、TOMMYセンセは、それなりの仕事をします。
①清水東をもう一度『名門』にすること!
②生徒に、『真実』を教えること!
この2つです。
ということで、今年も“それなりに”頑張ります。
矛盾するようですが、
頑張らないで生きます。