アクティヴラーニング |
ということで、昨日の脳ドックに続いて、本日も午後は学校を離れます。
※注1) 脳ドックは約40分程度の検査で1万7千円もとられた。聞くところによると50%は保険(補助?)で賄われるらしい。恐ろしや「社会保障関係費!」高性能なMRIマシーンを導入した分、検査をさせなければ減価償却出来ないということか?
どうも、日本の医療は「普通に死なせない・どこまでも改造して延命させる」ところまで行き着いてしまったのかもしれない。
これを、この思想をDOL(生命の尊厳)というらしい。
本日のお仕事は、アクティヴラーニングの研究授業を視察すること。
現在、某S岡県では、各教科で3人ほど“特命人事”を受けている者がいて、そいつらが、コツコツ「アクティヴラーニングで行う高校の授業」を研究させられている。
特別に指令を受けた者だけでなく、年次研修(教員1年目や5年目、10年目などの定期研修)でも、目的は「アクティヴラーニング」だ。
とにかく、「アクティヴラーニング」の授業以外は、近未来では認められない!!!!! といわんばかりの勢いで騒がれている。
でも、実際の高校現場では、「そもそもアクティヴラーニングの定義って何?」というそもそも論に直ぐに戻ってきてきてしまい、なかなか前に進まない。
まあ、定義の根本たる部分は「生徒が主体的に・・・・」という主体性にあるのだが、日本人には、主体的=「何をやるか怖くて考えられない、見てられない・・・」という潜在的恐怖がある。
おそらく、この「主体」というのが、いかにもマルクス的な、毛沢東的な、北朝鮮的な、思想を言葉として引きずっているからだろう。
要するに、
生徒が、何かをはじめる。何かを考え出す。何かの行動をする。という行動を作り出すことを目的としているのが、アクティブラーニングだそうだ。
グローバル化の進む現在で、文部科学省は、「現在の学校で限りなく続く、パッシブ(受動的な)、つまり受け身の、つまり先生の言うことを聞いて覚えるだけの、授業こそが、日本が世界の波に乗れないことの元凶である」との最終判断を下したらしい。
注2)前回の文部科学省は、「子供の成長を阻害する要因は、詰め込み教育である」という最終判断を下し、ゆとり教育なる思想を取り入れて大失敗した。
しかし、アクティヴなラーニングを、高等学校の授業に取り入れることは、相当に苦しい。理由は、高校生としての到達目標とそれに費やす時間が決まっているからである。別に、到達目標が決まっていない教科であるならば、普通に平気にどんどんアクティブに、バンバンと“新しい授業方法”を用いても問題はないのだが、何せ我々高校教員にはノルマがある。
例えば、普通科進学校で、ワタシのような公民科の場合、
「センター試験で、85点を、最低の勉強時間で達成する」というノルマがある。ポイントは“最低の勉強時間”という点だ。センター試験は5教科7科目の合算だからだ。これを達成できないと、“普通科進学校”というヒエラルキーかはじかれる。
そもそも(また始まってしまったソモソモ論)、高校生の受ける授業(アクティヴに表現すると、高校生が選択する授業)というのは、決まっている。
自分が、アクティヴに「これを勉強してみたい!!!!!」という授業はほとんどない。すべての授業は(主に大学進学の為に)、これとこれを受けなさい!という完全にパッシィブな構造なのであるから、そもそもアクティブからはほど遠い。
先日、鹿児島県の伊藤知事が、「女子にサインコサインを教えて何になるんだ」
と発言して、大バッシングを受けた。
しかし、この意見はもっともで、多くの日本人にとって、サインコサインは必要ない。
これは、サインコサインに限らず、 英語も数学も古典も漢文も理科も・・・・・ほとんどの授業は、関係ないヤツには関係ない。(実社会では役にたたない)
もちろん、高校だけでなく(一部を除いて)大学の授業も同じようなものだ。
となると、上から目線で「これからはアクティヴなラーニングにしなさい」という神の声と、高校生に「サインコサインは必修だ!!」という神の声の、2つを整合して、高校の授業でアクティヴラーニングを成功させるとなると・・・・・・・・・・・・・
これを考えながらはや6ヶ月。結論らしきものは出ていないのですな。m(_ _)m
またもや、一日中、うんうん頭を使いながら過ごさねばならない。@某H原高校にいます。