怨霊信仰 |
ということで、昨日、日本人の宗教感覚に関して書いたら、不思議なところ(FBでシェアされた)で褒められたので続きを書く。
日本人の宗教感覚の第一は「強烈な先祖崇拝」であると昨日書いた。「神も仏も・・・・・」という言葉が日本にはあるが、一神教を信仰しているような民族からすると相当神を冒涜している言葉である。しかし、日本人には妙にしっくりくる。日本人にとっては、神も仏も同じものである。
私たちは正月に初詣に行きお賽銭を投げ手を合わせてお参りをする。同じようにお盆にお寺に行き先祖の墓に手を合わせる。では、両方で何をぶつくさつぶやいているかというと、“ワタシの今後に御利益がございますように”とか“ワタシ達が幸せに暮らせるように見守ってください”とは、ほとんど全部が自分自身の現世利益を願い出ているのである。要するにお呪い(おまじない)をお願いしているだけである。
何も神々しい神に何かを捧げるだとか、ご先祖様を厚く弔うとかを本気で考えている人はほとんどいない。今や、日本中の神社では、パワースポット作り競争が大流行であるが、そのパワースポットに行くと“現世利益”が達成されるのであって本当の“神域”ではない。
実はそれも当たり前であって、「神や仏」という日本語は、同じモノを示しているそれは、ご先祖様だ。日本人は、天照大神は天皇のご先祖であると教わった。同じく日本を作り出した“貴族”達のご先祖はだいたいが日本書紀や古事記に登場する神々である。日本の神様は日本人のご先祖である。そして、仏様というのも日本人のご先祖であるので、「神も仏も」という言葉は、「遠いご先祖も近いご先祖も」ということになる。そして両方とも我々に“現世利益”を施してくれるものだ。
そもそも、神社でおみくじ(御神籤と書く)が売っているのは判るが、仏閣でおみくじが売られているのはなぜだ。釈迦や般若心経や妙法蓮華経が、君たちの行く末を占うとでもいうのか? あれらはすべて現世利益のための呪いであって、日本のご先祖様はいつの時代でも、「生きとし生けるもの」に頼られているのである。
また逆に、日本人はご先祖様を崇拝しないと祟りが起きると信じている。これは、「遠いご先祖である神」も「近いご先祖様である亡くなったおじいちゃん」にも当てはまることである。富士山は噴火するが、古代人は当然のようにそれは祟りだと信じていた。だから信仰の対象になったのだ。(浅間神社全部)
そして現在、「葬式産業」が「お寺」と結託して葬式を束縛し、そこに自由な発想を入れないのは、そんなことをすると「祟りが起きる」と言って周りから非難されるのである。我々庶民にとっては「周りからの非難」が一番怖い。バチが当たるという言葉は全くその祟りを言い換えたものである。
祟りが起きるは、神になりそこねた死者が怨霊となって近くをさまよっているからである。こういう怨霊は手厚く葬ってあげなければならない。前々回に、おそらく8/15の終戦の詔は、日本人のお盆と合わせたのだろうと書いた。戦争に行って無駄に死んでいった若者こそ手厚く葬ることをしなければ怨霊として災いをまき散らしそうだ。だから、「神」と「仏」の両方で一遍に祀ったのである。
日本人は、なによりこの祟りが一番怖い。バチが当たるのがとにかく怖い。自然現象的に全く偶然のことであり因果関係のないことであっても、「バチが当たった」の一言で原因を特定されてしまう。
だから、怨霊に関してはとてもとても手厚く供養している。日本文学史で教わる古典はほとんど怨霊信仰である。
・・・・・・なぜに平安時代に没落していった“源氏”の“物語”を藤原一族の才女が記しベストセラーになったのか?
・・・・・なぜに、源平の戦いで負けていった平家が、源平の争乱の主人公で、しかも“平家物語”と名付けられしかも琵琶法師(ほうしが重要)が語るのか?
・・・・・なぜに、六歌仙は知らないような歌人ばかりなのか?
・・・・・なぜ、8月になると戦争映画を上映するのか?(しかも、負けた戦争を好む)
・・・・・なぜ、日本人は戦争に負けたことをいつまでも忘れないのか?(もう一度やったら負けないぞと誓うわけでもないのに)
・・・・・・なぜ、原爆記念館に「二度と繰り返しません。この過ちは」という標語を書くのか。
・・・・なぜ、日本の政治家は戦争責任を曖昧なままにしておくのか?
そのすべての答えが、「祟り」があったり、「バチがあたる」からだと思うのだが・・・・・・